ショウペンハウエルの生涯

Arthur Schopenhauer

祖父母はともにオランダ生まれである。祖父の祖父にあたる人物はオランダで牧師をしていた人で、彼の「ショウペンハウエル」という名前もオランダ系の名前とされている。

彼の祖父は、オランダからダンツィヒ(現在のポーランドあたり)という自由都市(司教の統制がなく貢納や軍役などから自由な都市、自立性の強い都市)に移り商売を始める。それをショウペンハウエルの父が継ぐことになる。

そして1788年、ショウペンハウエルは生まれる。当時、彼の父母は商売の関係かイギリスにいたが、身ごもった母がダンツィヒに戻り出産したといわれている。

1793年にプロイセンのフリードリッヒ大王がダンツィヒを支配下に組み込むと、ショウペンハウエルの父はまだ自由都市だったハンブルク(ドイツ北西部の港湾都市)へと移る。

父の教育方針で、ショウペンハウエルは国際的なかかわりを持つことになる。
9歳の時にはフランス北西部の港湾都市であるル・アーブルにいる取引先に2年間預けられる。その後も各地をまわり12歳のときにはヴァイマールで晩年のフリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人・劇作家、ベートーヴェンの第9の作詞家としても有名)に出会っている。

15歳になったころ、学問への情熱に目覚めたショウペンハウエルは父にギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関で日本の中高一貫校に相当する学校)への入学を希望する。しかし息子に自分のあとをついで商人になってもらいたいと思っていた父は、商人になることを約束させた上でわが子を世界一周旅行に連れて行く。このことからも彼の父が商人として相当の成功をおさめていたことが分かる。

ところが世界一周旅行から帰ってまもなく、彼の父が自殺をする。時にショウペンハウエル17歳のときであった。これが彼の哲学に大変な影響を与えたことは想像に難くない。

父の自殺の原因は定かではないが、商売は順調だったものと思われる。実際、ショウペンハウエルは父の遺産のおかげで生涯を通して金銭に苦労はしていない。そのため大学で教鞭をとる必要もなければ、売れるための本を書く必要も無い。自分の好きな研究を続けることができたのである。

ギムナジウムの卒業試験を合格したショウペンハウエルは21歳でゲッチンゲン大学医学部に入学。カントやプラトンを学び、「人生とは元来、不安なものである。この不安の闡明に一生を懸けても惜しくない」と哲学部へ転部している。

転部後はベルリン大学に移り、学位をイエナ大学でとる。学位論文はカント主義に独自の見解を加えた「充足理由律の四つの根源について」

フリードリッヒ・マイヤーというインド学者から『ウパニシャッド』を学んだショウペンハウエルの哲学は、仏教的な色彩をおびていく。
ショーペンハウアーはブッダ思想を称賛し、仏教は「完璧」だとすら言った。
「私は一介の案内者にすぎない。人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教をひもといて見つけてほしい」とも語っている。

1819年、31歳のときに主著といわれる『意志と表象としての世界』を執筆。翌年の1820年にはベルリン大学で講師の地位を得る。しかし当時ベルリン大学で支配的だったヘーゲルに批判的だったこともあり、翌年の講義はなかった。

彼は落ち込んでイタリア旅行に行ったり、病気になったり、右の耳が聞こえなくなったりして講師をやめてしまう。

1831年、43歳の時にはベルリンでコレラが発生し、ドイツ中西部のフランクフルトに移る。

当初、『意志と表象としての世界』はまったくといっていいほど売れなかったといわれる。ところが1851年、63歳のとき『意志と表象としての世界』に補足する形で出版した『人生知のためのアフォリズム』という格言集が売れ始めると、ほかの著書も売れ始めた。

そうこうしているうちに1848年のドイツ革命が失敗して革命思想が勢いを失うとともにヘーゲル哲学もかげりを見せていく。それに代わってショウペンハウエルの哲学に脚光があたり、それなりに人気の哲学者として生涯を終えることとなった。

亡くなったのは1860年9月21日、72歳のときであった。当時としてはかなりの長寿である。

主著はいわずと知れた『意思と表象としての世界(Die Welt als Wille und Vorstellung)』である。戦前は『意思と現識としての世界』と訳されたこともあったという。

ショウペンハウエルの家族

祖父母

ともにオランダ生まれである。祖父は商売で成功し、ショウペンハウエルの父にそれを引き継いだ。

父 ハイリンヒ・フローリス・ショーペンハウアー(1747年 - 1806年)

オランダ語ができ、フランスやイギリスなど国際的な取引も行う商人であったといわれる。この父が残した遺産のおかげでショウペンハウエルは食べるに困ることは生涯なかった。ショウペンハウエルが17歳のときに自殺。

母 ヨハンナ・ショーペンハウアー(1766年 - 1838年)

ダンツィヒの名門トロージナ家に生まれる。実家はダンツィヒ市のセネター(上院議員)であった。ショウペンハウエルの父ハインリヒよりも20歳年下でかなりの歳の差婚であった。

ハインリヒの死後、ヴァイマルに移りサロンを開く。もともと文才があったため、当時のドイツではかなり有名な女流作家となった。ゲーテやシラー、シュレーゲル兄弟とも交流があったといわれる。

ショウペンハウエルと文通でのやりとりをしていたが、ショウペンハウエルのペシミスティックな文章に嫌気がさして決別。

醜女であったといわれる。生涯、結婚はせず、作家として成功した。